居心地。

2006年9月16日
幸せは、目に見えない。
きっと同じように、不幸も、目に見えないものだ。

幸や不幸は、誰が判断しているんだろう。

目に見えないのに、どうしてそれがわかるのだろう。

「価値観」は、どこで覚えるんだろう。
あたしは、あたしの価値観を、どこでひろってきたのだろう。
片親の人、障害のある人は、フツウとは違う?奇異?
家系に犯罪を犯した人が身近にいる人とか?
離婚したどちらかの親には、もう別の家庭があるとか?

両親がそろった家庭環境の子はフツウ?
両親がいて、友達がいて、恋人がいて、
きちんと学校へいっていて、または、
ちゃんとした職についている。そういうのがフツウ?
そういう「状況」ならその人は恵まれてる?幸せ?
お金があれば幸せ?借金は恥?
それは、よくも悪くもプライドの問題?

たぶん、
目には、見えないもの。
幸せが、目に見えないものなら、
怖いものも、目には見えないもの。

それは、人の価値観。
人が、人を、どういうふうにみるか。
奇異の目で、突き放すのか。
その根底は、その人の価値観。

「受け入れない。」
その感覚が、大きいか小さいかはあっても、
それが、居心地の悪さの原因。
そこにいる人の心が、その場所の居心地を決めている。
居心地。 心の地。 心の場所。

家はあっても、帰る場所がないのは、
受け入れてくれる人がいないから?

私自身に、偏見がある。
「フクザツな家庭環境」の人と接する時、
戸惑ってしまうのは、
そういう人たちは「カワイソウ」な人たちなのだと、
思っているから。根底で。
何で、そういうふうに思うようになったんだろう。
そういうもんだ、という、価値観を、
そういう人たちと接する前に、どこかで覚えてきた気がする。
だから、そういう人だと初めて知った時は、
一瞬、変に緊張するのだと思う。
下手なこといっちゃいけない、とか。

両親そろった家庭だとか、祖父母に育てられたとか、
それが、本人が育つ上で
幸せだったかどうかには、たいして関係ないんじゃないか。
あるとするなら、目に見えない、愛情の問題。
そして、その家庭環境、そこにいる人たちと、
どういう関わりをしてきたか。
片親だから、家事の手伝いをしなきゃいけない、とか、
お金がないから勉強しながら働かなきゃいけない、とか、
そういう、実質的な違いはあるだろうけれども。

与えられた愛情。どれだけ大事にしてもらえたか。
とか、
孤独の時間が多すぎて、寂しい、とか・・・。

大事なのは、状況じゃなくて、中身。
だから、それは、人それぞれだ。
状況よりも、その人が、
どういう思いをしてきたのか、とか、
何をどう捕らえて、どう感じてきたのか、
ということが大切なんだろうな。

そしてそれは、「状況」から自分が勝手な想像しても
仕方ない。
本人がどう受け止めてきたかを聞いたほうがいいんだ。

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